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先輩たちの
サクセスストーリー

京都青年会議所 組織力向上委員会 推進企画

先輩たちの
サクセスストーリー数珠つなぎインタビュー
京都青年会議所 組織力向上委員会 推進企画

「JCに入って、何が変わったのか」。歴代理事長をはじめとする先輩方を訪ね、その歩みと、JCが社業・人生にもたらしたものを聞く連載企画。語り手が次の語り手を指名する“数珠つなぎ”でお届けします。

収録・構成 組織力向上委員会 公開範囲 正会員限定(転載・再配布はご遠慮ください)
サクセスストーリー 第一回

未来を鮮やかに描き出せ

福井 正興(ふくい・まさおき)
株式会社福寿園|2001年 京都JC入会・2008年度 理事長・2011年度 日本JC会頭

2004年、日本の緑茶飲料の風景を変えた「伊右衛門」。その福寿園を担う福井正興先輩は、東日本大震災が起きた2011年、日本青年会議所の会頭として被災地支援の先頭に立った。「絶対嫌や」と入会を断り続けた青年は、なぜ日本JCのトップにまで至ったのか。記念すべき連載第1回。

茶道部に「捕まった」大学時代

まずは生い立ちから。学生時代はどんな人生を?

福井 特に変わったことはないんだけど、京都市内で生まれて、姉が2人。転々として最後は奈良で育ちました。中高は大阪の男子校で、大学は京都。男子校で過ごしたぶん、大学は楽しくやりたいとオリエンテーション期間にキャンパスを見て回っていたら、たまたま中学の同級生に出会った。彼の親御さんが茶道の先生で、「大学の茶道部を見に行ってこい」と言われていると。「ここで出会ったのも何かの運命や」と連れて行かれて、結局そのまま茶道部に捕まった、というのが正直なところ(笑)。

父が次男坊で、本家の会社の横で育ったわけではない。4年間の茶道部が、福井先輩にとって「茶」との最初の縁だった。将来の夢を問うと、「お茶屋の家に生まれたことは理解していたけれど、跡を継ぐとは全く思っていなかった」。就職活動では、なんとなく食品系の会社を受けていたという。

福井 その時にたまたま、「静岡に国の野菜・茶業試験場があって、研修生として2年間学べる。受けてみないか」と言われて。確かにお茶のことを全然知らんなと。茶道部ではあったけれど、栽培や製造は全く知らない。受けたら受かって、2年間静岡へ。茶畑の管理から製造まで、茶農家の後継者が学ぶような研修です。それでも家業に戻る気はなかったんだけど、結果として、そのまま会社に入ることになったんですね。

インタビューに応える福井正興先輩
「願わくば、断り続けたかった」――入会の経緯を笑いながら振り返る福井先輩

「絶対嫌や」から始まったJC

JCとの出会いは?

福井 静岡から帰った24、5歳の頃、大学の茶道部の先輩に「JCに入れ」と言われて、「絶対嫌や」と断ったね(笑)。大変やという話を薄々聞いていたから。断った代わりに「じゃあYEG(商工会議所青年部)ね」と、有無を言わさずYEGへ。理事になって楽しくなってきた頃に、また同じ先輩から「JCに入れ。来年が50周年で、こんな機会はない」と。2回も声をかけていただいて、移籍させられたような形で(笑)、JCの道に入りました。6つ上の、大学の頃からずっと可愛がっていただいた先輩。あの方がいなければ入っていない。願わくば断り続けたかったんだけど、しつこく誘っていただいたおかげですね。

入会してみて、率直にどうでしたか。

福井 最初の1、2年は、言葉を選ばずに言うと、理不尽なことが毎日起きるわけですよ。3日寝られへんとかザラで、「信じられへん」と。本当に嫌だった。ところが3年目、仕事で1年東京へ行くことになり、委員長に相談したら「ちょうどいいところがあるよ」と日本JCを勧められた。「ここにもあんのか」と(笑)。2003年に運営幹事で出向して――そこでドハマりしたんです。初めて京都以外の活動を知って刺激的で、とんでもなく優秀な人たちが目の前に現れて、自分がどれだけしょうもない人間かをさらけ出された。あの経験で、真面目にJCをやろうと変わりました。

5年ぶりの委員長出向、新幹線の議案協議

「京都JCはえげつないから、正直、戻りたくなかった(笑)」。それでもLOMに戻り、総括幹事、理事、委員長、副理事長へ。副理事長のまま挑んだ日本JC委員長への出向は、京都JCとして実に5年ぶり。前例を知る人はほぼ卒業しており、聞きに行ける相手は先達の平井先輩ただ一人だった。

福井 活動場所はほぼ東京・横浜で、LOMの案件を見る時間がない。委員会のメンバーが新幹線でわざわざ横浜まで来てくれて、帰りの新幹線で一緒に議案を揉みながら京都へ帰る、なんてこともあった。かわいそうなことをしたけど、それぐらいしか時間がなくて。めちゃくちゃ忙しい、激動の年だった。でも、その頃にはさすがに自覚ができている。LOMのおかげで出向できているし、LOMがあってこそ。だから、その先を目指すのは当然のことだと思ったね。

笑顔で語る福井先輩
「京都JC、えげつないからね」。厳しさも愛情も、笑いに変えて語る

会頭の年、3月11日

2011年、日本JC会頭に就任されます。

福井 副会頭を2回務めた時点で、「会頭へのチャンスはもうないな」と思っていた。それが叶ったので、すごく嬉しかったし、それ以上に責任を強く感じた。平井先輩がずっと会頭を目指され、卒業までに間に合わなかった。その道筋を切り開いてこられて、すべて教えていただきながら会頭まで行けた。本当に先輩方のおかげです。2011年は日本JC創立60周年。記念事業も派手にやろうと意気込んでいたら、3月11日に東日本大震災が起きた。その後はほぼずっと震災支援。あっという間の1年でしたね。

「伊右衛門」の年を、面白おかしくは語れない

JC入会間もない2004年、「伊右衛門」が誕生します。大変な年だったのでは?

福井 これはなかなか面白いネタにはならないんだけど(笑)。当時、私は社長ではないし、父が社長、亡くなった伯父が会長で、2人で会社を回しているところに私もいた、という状態。「やるかやらないかは、お前の世代に関わることやから」という話はもちろんあって、僕は割と前向きに「やった方がいいんじゃないの」という考えだった。ただ、この話は「大変やった」と面白おかしくは言えないんですよ。毎日毎日、本当に大変やから(笑)。話題性のある大きな案件だからといって、特別しんどかったかというと、そういうわけではないんでね。

お前に無理なことは頼んでいない。できると思って頼んでいるんや。
――現役時代、先輩に言われた言葉

解決できない課題は、世の中にない

「JCでしか経験できなかった」と思えることは?

福井 現役の頃、「できません」「無理です」とよく言っていたら、先輩に言われた。「お前に無理なことは頼んでいない。できると思って頼んでいるんや。できる範疇でやればいいんや」と。それからは、どんな困難な課題でも絶対に解決できるという自信を養えた。とりわけ震災があったから。震災支援でも、できることは無限にある。考えれば考えるだけ行動が生まれる。「解決できない課題は世の中にない」と思えるようになれたのは、JCのおかげやと思うね。仕事でも同じで、えげつない問題が来た時でも、ちょっとワクワクするもんね。「いけるんちゃうか」と(笑)。

現役メンバーへのメッセージを語る福井先輩
震災の年に空港で出会った一冊の言葉を、いまも大切にしている

現役メンバーへ――未来を照らすのがリーダーの仕事

福井 震災の時、仙台空港が津波の被害を受けて、飛ぶか飛ばんか分からんまま伊丹空港へ向かった。飛びそうもないなと思いながら、たまたま空港で買った本にこう書いてあった。「リーダーがすべきたった1つのことは、未来を鮮やかに描き出し、追う人がどこに向かっているかを明確に示すことだ。明確さは不安の解毒剤である。優れたリーダーは錬金術師であり、未知のものに対する恐れを、未来を信じる気持ちに変えることができる」と。地域や社会や会社にどれほど大変なことがあっても、リーダーは常に未来を明確に描いて、「そこへ進んでいくんだ」とはっきり示さなあかん。青年会議所で地域のリーダーとしての修行をしているなら、到達すべきところはおそらくここです。それを、ぜひ学んでほしい。

福井 もう1つ。最近聞いた言葉で、「素晴らしいリーダーになれるかどうかは、行動量と移動距離に比例する」。まさにJCやなと。時間も多少のお金も使って、あちこちへ行かなあかん。でも、それが結果として経験になり、リーダーとしての成長につながる。しっかり移動も行動もして、頑張ってほしい。それが現役に対する思いですね。

福井 正興(ふくい・まさおき) 1971年、京都生まれ。大学で茶道部に所属したのち、静岡の国立野菜・茶業試験場で2年間研修し福寿園へ。2001年、公益社団法人京都青年会議所に入会。2008年度理事長、日本JC副会頭を経て、創立60周年の2011年度に日本青年会議所会頭を務め、東日本大震災の震災支援を指揮した。
サクセスストーリー 第二回

忙しい時ほど、力は向上する

小川 秀明(おがわ・ひであき)
小川珈琲株式会社 会長|1986年 京都JC入会・1995年度 理事長

柳馬場の「町のコーヒー屋さん」に生まれ、京都の珈琲文化を育ててきた小川珈琲・小川秀明先輩。理事長を務めた1995年、京都会議の開幕前夜に阪神・淡路大震災が発生する。京都会議中止の決断、そして京都JC初のヘリコプター支援――。会員400名時代の熱気とともに、激動の1年を振り返っていただいた。

うなぎの寝床と、コーヒーの匂い

お生まれは西京極ですか?

小川 いやいや、生まれたのはもっと街の中。柳馬場の、三条と六角の間ぐらい。自宅とコーヒーの本社と工場が一緒になった、うなぎの寝床みたいな家に住んで、コーヒーを商売して。いわゆる「町のコーヒー屋さん」のスタートですね。小学校は今の高倉小学校、昔の日彰小学校。1学年30人ぐらいしかいなくてね。ドーナツ化現象で住宅がどんどん周辺部へ移っていった時代です。6年の時に住まいを松ヶ崎へ移して、私は転校せず、親父が出勤する車に乗って小学校に通っていました。中学は下鴨中、洛北高校から中央大学へ。

家業は継ごうと?

小川 子供の頃から思っていましたね、何の疑いもなしに。住んでいるところに常にコーヒーの匂いがしていましたから。必然的に、「これが将来の仕事」だと。親父が病気がちでね。胃を取って、肺を取って、頭に脳腫瘍もできて切って――いつ死ぬかわからない状況だったので、すぐ家業に入りました。そこから20年ぐらい生きたので、よく生きたなと(笑)。

笑顔で当時を振り返る小川秀明先輩
「ロータリーを断るために、JCに入った」。意外な入会秘話に場が沸いた

ロータリーを断るために、JCへ

入会のきっかけは?

小川 28歳ぐらいの時、ロータリーに「入らないか」と言われて、入会申込書まで書いたんです。当時のロータリーは1業種1社、選ばれし者しか入れない、バッジをしているだけでステータスがある、という世界。「そんな私を入れてくださるならお願いします」と。ところが、平均年齢を見たら60歳。当時私はまだ27、8ですから、「こんなところに入るのか」と一瞬戸惑っていた時に、「JCという組織があるよ」と教えられて。ロータリーをお断りするためにも「JCに入りますので、ちょっと待ってください」と(笑)。それがきっかけですね。正直なところを言うと、そうです(笑)。

ネパールへ――経口補水塩と、手洗いの普及

最初の委員長は「地域活性化委員会」。どんな委員会だったんですか?

小川 国際貢献のような形でね。当時、ネパールでは下痢や脱水症状で子供や赤ん坊が亡くなっていくという問題があって、経口補水塩をネパールに持って行って子供たちの施設に寄贈し、あわせて手洗いや清潔にする習慣を普及させる、という事業をやっていました。本ミッションは年2回、その前後もよく行きましたね。会員が400人いた時代だからできた規模ではあるね。

では、今ネパールで手洗いをしている子供たちがいたら、先輩の作った運動が続いているということですね。

小川 そうであれば、嬉しいねえ。

担がれて理事長へ、400名時代の熱気

その後も日本JCの財団設立推進特別委員会、国際アカデミー、国際セミナー委員会と国際系の出向が続き、副理事長2年を経て理事長に。「なぜ私が理事長になったのか。『なりたくなかった』とは一言も言いませんでしたけど(笑)、周りから担がれた形でね。この辺は色々あるので、やめときましょうか(笑)」。立候補者は「もう、1人しかいなかった」。会員400名時代の京都JCは「例会も賑やかで、飲み会も毎週。夜中の焼肉とかね(笑)」という熱気に包まれていた。

劇的な状況になればなるほど、結束力は強い。
――阪神・淡路大震災を振り返って

1995年1月17日――京都会議中止の決断

理事長の年が、阪神・淡路大震災の年でした。

小川 1月の、京都会議の始まる週でね。翌朝から準備がスタートするという、まさにその晩に地震が起こった。「これは大変なことになる」と、JCで集まって。京都会議については、日本JCの会頭から「全部用意ができているから、こちらから『やめる』とは言えないけれども、理事長がやめると言うのならやめます」と。それで、「もう、やめます」と決断しました。そこから支援活動へ。会場などいろんな施設のキャンセルに走るのも大変、支援に走るのも大変で。

京都JCとして、神戸へは?

小川 京都JCが初めてヘリコプターを飛ばしたんです、河川敷からね。ヘリコプターを持っている人たちが「支援したいけれど、どうしたらいいかわからない」という状況で、京都が「じゃあ、全部来てくれ」と。河川敷にヘリがずらっと並んで。FM放送などで呼びかけたら、すごい量の支援物資が集まって、それを運ぶだけで延べ60回ぐらいは飛んでいると思います。私も地震の2日後に、すごい状況の中、ヘリに搭乗して神戸へ。神戸市役所のところに荷物を置いて帰る、というような形でね。

支援活動は半年に及び、「JCの事業より、そちらの事業になってしまった」。震災当日の深夜、会社もパニック状態のなか、理事たちは「なんかやらなあかん」と集まり、支援の内容を協議したという。「たくさんの繋がりがあったから。あの時、一番早く動いたのはJCだったと思いますね。劇的な状況になればなるほど、やっぱり、結束力は強い」。

身振りを交えて震災当時を語る小川先輩
河川敷に並んだヘリコプター、集まり続けた支援物資。当時の光景を身振りを交えて語る

JCと社業――スケジュールが人を育てる

JC活動によって、事業が伸びたということはありますか?

小川 「直接」というのはないんです。ただ、私は基本的に、忙しい時ほど会社も忙しくて、それがうまく回る。逆に、暇な時は会社の仕事もなんだか暇になる。だから、スケジュールをうまく管理して、JCはJCできっちりやる、仕事は仕事できっちりやる。「忙しいからできない」ではなくて、忙しい時ほどもっともっと忙しくすれば、その力は向上してくる――不思議と、そう思いましたね。本当に、1日が長くなった。ぼーっとする時間がなくなって、ぼーっとしていられない性格になりましたね(笑)。

10年間のJC活動で得たものは。

小川 何より、いろんな人との繋がり。繋がりは、個人の力だけではない力を発揮させてくれる。それが日本に、世界に広がっていく。自分の力にも、会社の力にもなる。それと、JCで気づかされたのが「社会貢献」という意識ですね。こういう組織に入っていないと、「なんで人のために奉仕しないといけないんや」という気持ちのままだったかもしれない。持続可能な世界で商売を続けるためには、社会貢献をしていく。それと共に、自分自身も会社も成長していく。この大切さに気づかされたと思いますね。

現役メンバーへ語りかける小川先輩
「心から繋がるJCを」。卒業から30年、変わらぬ思いを現役に託す

現役メンバーへ――心から繋がるJCを

小川 いろんな、異なる人との繋がりを大切にしてほしい。やんちゃなことも入れていいと思うけど(笑)、人として成長できるようなJC活動をやってほしい。そのために、やっぱり、心から繋がるJCでやってほしいなと思いますね。

小川 秀明(おがわ・ひであき) 1956年、京都・柳馬場の「町のコーヒー屋さん」に生まれる。中央大学卒業後、父の闘病を機に小川珈琲へ。1986年、京都青年会議所に入会。地域活性化委員会委員長としてネパールでの経口補水塩寄贈・衛生普及事業を推進し、日本JC出向、副理事長を経て1995年度理事長。阪神・淡路大震災では京都会議中止を決断し、京都JC初のヘリコプター支援(延べ約60回)を含む約半年の支援活動を指揮した。卒業から今年で30年。